下奥信也 先生
ソフトボールの父
1932年(S7年)7月29日兵庫県三田市生まれ
・県立有馬高校卒業と同時に有馬高校の助手として勤務(その間にソフトボール部コーチ)その後、日本体育大学に入学(野球部に所属し投手として活躍)。
・1956年(S31年)日本体育大学卒業(プロや実業団から勧誘を受けるが、教師を目指し跡見学園高等学校に赴任。3年間保健体育教諭として勤める)
・1958年(S33年)4月、日本体育大学助手として勤め、野球部とソフトボール部の両監督を兼務された。
・1967年(S42年)4月:ソフトボール部のみ部長兼監督となる。
・1989年(平成元年)退職と同時に、部長・監督も退任し小川幸三先生へ引き継がれる。
・1996年(平成8年)10月1日、午前1時35分山形県至誠堂総合病院にてご永眠された。
日本体育大学教員時代は、ソフトボール競技の普及、発展、強化、技術研究に熱心に取り組み、日本で最初の日本式ウィンドミルを完成と同時に変化球を投げたとされている。また、全国各地にソフトボールの技術指導で投手力を向上させた第一人者であり、”ソフトボールの父”とも言われている。
・日本ソフトボール協会常任理事 技術委員長
・全日本大学ソフトボール連盟理事長
・アジア大会団長、世界選手権監督等
ウィンドミルの普及・発展・強化
1.優秀な門下生をソフトボールの指導者として送り出し、門下生が全国大会の選手や監督として、全国で活躍させウィンドミル投法を広めた。
2.全国各地でピッチングクリニックなどの講習会を開催しウィンドミル投法を指導された。
3.全日本大学連盟:理事長として大学選手権、リーグ戦を開催した。
4.NHKやソフトボールマガジン等の雑誌に、ウィンドミル投法の理論や技術等を連載し、普及・発展に勤めた。
全日本大会の優勝歴史(監督生活23年間)優勝35回、準優勝15回、3位13回
世界選手権監督、アジア大会団長、世界大学大会監督、日米大会監督、日本ソフトボール協会理事、日本ソフトボール協会技術委員長、全日本大学ソフトボール連盟理事長等を歴任された。